既にご存じの方もいらっしゃるかもしれないが、私は写真が趣味である。大した腕前ではないが、いくつかフォトコンテストに入賞させていただいたり、写真集を出版させてもらうチャンスを頂いた事もあった。
とはいえ、それで生計を立てているプロの写真家ではないし、いわゆる日曜フォトグラファーである。
そんな私だが、最近Canonが2020年に発売した最新モデルのカメラである、EOS R5を購入した。約45万円のカメラである。驚かれるかもしれないが、45万円という値段は確かに高いがカメラ業界では普通である。
しかし、である。いくら「ちょっといいカメラってこんな値段だよね」と正当化したところで、高いものに変わりはない。そして、どれだけ写真コンテストに入賞しようが、それが私のメイン収入源でない限りにおいては、カメラはただの趣味である。
では、なぜ最新式のカメラを買うのか? そして、そもそも、最新カメラを買う必要はあるのか?
この記事は、EOS R5のレビュー記事ではない。いくつかその機能について所感を述べるが、この記事はカメラのレビュー記事ではない。より大枠の、「カメラを買うということ」について考えていきたい。
この記事はこんな方におすすめ
- ちょっといいカメラを買いたいと考えている方
- 新しいカメラと型落ちカメラ、その違いを知りたい方
- 最新式のカメラを買ったほうがいいか悩んでいる方
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当たり前だが、新しいほどいいカメラなのは事実である
まず最初に前提を述べておきたい。一番新しいカメラは、一番いいカメラである。
これはあくまでも原則の話である。もう数十年以上前のライカM3のファインダーは確かに最高だが、そういうことを言いたいわけではない。
電子機器なのだから、新しいほど技術的革新が詰まっていて、改善されたカメラである。
しかし注意しなければならないのは、「あなたにとってそれが必要か」という視点での考え方である。ここだけを軸にして考えてみると、こう言えるだろう。
素人の99.5%は、最新式のカメラを必要としていない。
下手するとプロにだって当てはまることかもしれない。
というのも、よく考えてみてほしい。プロカメラマンというのは、その名の通り、写真を撮って生計を立てている人たちである。つまり現在進行系で写真で生計を立てている。ということは、今の時点でも成り立っている職業である。だとすれば、新しいカメラを買わなくても生計は立つのである。
新しいカメラがないと仕事ができないのであれば、そいつは今までどうやって仕事をしてきたのだ?
カメラを買い換える必要がある理由とは何なのか
例えばEOS R5で個人的に目玉だと思っているのは「手ブレ補正」と「瞳AF」である(他にもあるけどさ)。前者はカメラの機構で機械的に手のブレを抑えてくれて、要は色々な場面でよりきれいな写真が撮れるようになるものである。後者は、特別な技術を必要としなくても、人物を撮る際にきれいにピントがあう機能である。つまりいずれも、「きれいな写真を撮る」ために「補助」してくれる機能である。
とすると、ここで一つ疑問が生じる。
「EOS R5(最新カメラ)を買うと、よりきれいな写真が撮れるようになる補助機能がついてくる」と考えた際に、「果たして、その補助は必要なのか?」というものである。
ここで再度、先程の前提に振り返ってみる。
「プロカメラマンは、既によい写真を撮っている。だから写真で生計を立てている」と考えた際に、彼らに新たに「補助」は必要だろうか?
これは意地悪な問である。というのも、「必要」なわけがないからである。
とはいえ、「より便利になる」のは事実で、そう考えた際に、「あるかないかでは、じゃああったほうがいいに決まっている」というものである。
つまり私たちは、「なくてもいいけど、あったほうがいいもの」という差分に価値を見出すのである。
じゃあ昔のカメラは使い物にならないのか? そんなことはない。
今の消費社会において、モノを買わせるために企業はありとあらゆる努力をしてくる。つまり、「これを買わないと駄目だ」「これを買えば世界が変わる」「これであなたの人生は楽になる」といった文句が踊るのである。
CMや雑誌の宣伝記事では、様々な「プロ」が登場して、「ここがすごいぜ!」と宣伝してくる。
しかし、よく考えてみれば、彼らは同じことを前の商品でもやっている。一世代前の商品の広告を見ると、同じように「これを買えば世界が変わる」的なことを書いているのである。
「より洗練された」は事実だが、毎回言われている。
昔のカメラ記事を見てみると、10年、下手すると20年ほど前のものであっても「完成されたプロの機材」なんて書かれているのである。では10年前、20年前のカメラで問題ないのか? と問われた時。
そう、20年前のカメラでも「問題はない」のである。
そこに生じる問題といえば、例えば「互換性があるレンズやバッテリーがあまり出回っていない」とか、「経年劣化で壊れている」とか、そういう問題であろう。その頃のメモリーカードが今日はもうどこでも売っていない、ファイル形式が対応していない、とかそもそものインフラ的な問題ならまだしも、それ以外の「問題」はあくまでもわがままの範疇である。
しかし、操作性、出てくる絵、そういうものに関していえば、「私たちが普通に使う限りにおいて、問題はない」のである。
そんなに画素数も、ダイナミックレンジも、いらないのではないか。
よく「何百万画素」がどうとか、そういう話題になることがある。多いに越したことはない(手ブレとかファイルの重さとか、色々と弊害はあるがここでは目をつむることにする)のは事実だが、しかし、「必要最低限」はどこなのだろうか?
よく言われていることに、「A3以上のポスターとして印刷しなければ画質は破綻しない」というのがあるが、「じゃあ20年前のA3以上のポスターはどうやって作っていたの?」と問うべきである。
その時でもできていたのだから、当然今もできる。
その当時のカメラで問題なかったのだから、今も問題があるわけがないのである。
じゃあ、なぜ私はEOS R5を買ったのか
私がEOS R5を買った理由はシンプルである。「使い方が分かるし、楽をしたかったし、お金があったから」である。
使い方が分かるというのは、その名の通りである。買う前に取扱説明書やパンフレットを見て、どういう機能があって、それをどう使うのかを理解して、また使う場面が想定できていたからである。
流石に使わない機能のためにお金を払う気にはなれない。
楽をしたかった、というのは先程書いた「手ブレ補正」や「瞳AF」機能のことである。これは私の撮影を楽にしてくれる。電動アシスト自転車のように、能力がないものにより能力を与えてくれる。
しかし、上記2点を合わせてみても、「45万円」という値段を正当化することはできない。
というのも、私はカメラが好きで、もう既にカメラを持っているからである。持っていなかったとしても、正当化はできないかもしれない。
そこで最後に「買えたから」という理由を付す。それに45万円支払うことができたから、それに45万円支払ったというところである。
つまり、価値的なところを見てしまえば、「プロカメラマンではない私」にとってこのカメラは必要はない。というか、ここ20年間で発売されたありとあらゆるカメラでさえも、私には「必要」はないだろう。
しかしそれで満足できるのであれば、それで良いのである。
私はこのカメラを買って幸せなのだから。
まとめ 現代の製品の機能は私たちの能力を超えている
昔、こんな逸話を聞いたことがある。
かつてNASAが人を月に送った際に使われた全てのコンピューターの演算能力よりも、あなたの手に持っているスマートフォンの演算能力のほうが高い。
これは事実かどうかはわからないが、おそらくそうなのではないかなと思う。
というのも、私は今自身が使っているスマートフォンや、タブレットや、パソコンや、カメラや、その他ありとあらゆる電化製品の能力を完全に持て余しているであろうからだ。
というか、世界の大半の人物がそうであろう。
「より快適に」を求めて最新機種を求めるのが私たちの性であるが、それを「必要」としている人は少ない。そういった需要を無理やり作らされて、「買わないといけない」という気持ちにさせていく社会にいるからである。
本当に私たちにとって必要なものは、恐ろしいほどに限られているかもしれない。
それを考えだしたらキリがないのだ。
写真の個展をやったりすると、カメラうんちくをする人が必ず出てくる。うんちくをするのは楽しい。私だって、EOS R5について、あるいは私が今まで過去所有してきたカメラ全てについて、おそらく1時間程度語ることができるだろう。しかし、考えないといけないのは、それでマウントが取れることは決してないということだ。
どんなに良い商品でも、すぐに「よりよいもの」が出てくる。
しかし不思議なことに、その時点で「最高、これ以上はない、完成されている」とされていた商品が、次のモデルが出てくるだけで「過去のもの」になってしまうのだ。陳腐化である。
私はそれが不思議でならない。しかし頭で理解していながらも、ついつい、新しいものに手が伸びる。
だがこれだけは言っておこう。 Canon EOS R5は最高のカメラだし、これ以上私は必要ないであろう。それを分かっている上で、きっと数年後は新しいものを買うのだから、困ったものだ。