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自由と選択肢の狭間に揺れる 現代社会の問題点

選択の自由

高校の時の授業で今も印象に残っているのが、英文学(English Literature)で出た「自由と規範のパラドクス」の話だった。

自由に踊りなさい、だとか自由に詩を書きなさい、だと結果は割と荒唐無稽になる。

自由と規範のパラドックス

ある程度のルールを理解して土台となる知識がなければ「自由にせよ」と言われても分からないのである。

なるほどそれは面白いと思った。好き勝手文章を書けるようになるためにも、ある程度は文法を理解したり名著を読んでおく必要があると、「文学なんて何の役に立つんだよ」と斜に構えがちな高校生の我々に語ってくれたのである。

この記事はこんな方におすすめ

  • 教育の必要性に疑問を持つ方
  • 今すぐ仕事を辞めて、どこかに旅立ちたい方
  • 外国の人のほうが、自由に生活しているように見える方

自由な羊飼いにあこがれて

少し話は逸れるが、私はたまに羊飼いに生まれたかったと思う事がある。本気にしているわけではなく、純粋な嫌なことから目を背けるための逃走の妄想だ。

読者の中に羊飼いの方がいたら大変失礼なことを言っているのは百も承知なので、笑って流してほしい。私が言う「羊飼い」は妄想の産物で、実在はしないものだ。

ある国にーー例えばカザフスタンとかモンゴルにーー羊飼いの少年がいたとする。その少年の父親は羊飼いだ。その父親も羊飼いだ。口伝に伝わる限り、どれだけ遡っても羊飼いだ。とすれば、少年も当然羊飼いになる。でなければ、今いる羊たちの面倒を今後誰が見ると言うのだろうか。

つまり少年は羊飼いになる事が決まっている。少年が望んでいるか否かは関係ない。

ここで自由と規範のパラドックスが入ってくる。少年はそもそも羊飼い以外の存在を知っているのだろうか。もちろん、羊だけを食べて生きているわけではないだろうから、その他の行商人や町の人に会っているかもしれない。そうすると、彼は他の選択肢を知ることになり、はじめて「羊飼いにならない」という選択肢を考えることができる。

私が妄想する羊飼いは、「何も考えなくても人生の指針が決まっている」ことに対する憧れである。

皆さんはきっと何度も「メキシコの漁師とハーバードMBA」の話を聞いたことがあるだろう。私も初めて聞いたのはいつだったか思い出せないが、おそらく十回はどこかの飲み会の席や、意識高い学生同士の会話や、何らかの自己啓発本で読み聞きしたことがある。

あの話があそこまで広まったのも、自由選択によってかえって狭められた私達の世界があるからこそではないか。そして誰しもがそれをおかしいと思って、こういった皮肉な笑い話に興じるのだ。

現代社会は選択肢だらけ

というのも、私たちの日々はあらゆる選択に溢れている。そしてそれぞれの選択肢の重みも比較的大きい。

高校生だったら学校へ行くか働くか、働くならどこで働くか、学校へ行くならどこへ行くか、どう勉強して将来どうするか…と様々な選択肢ができている。

そもそも、私だって今仕事のことを考えるのを一旦やめてブログを書くことに時間を使っているのも、それ自体が「仕事をしない」という選択だ。

今の時代、職場にいなくてもどこでも仕事ができてしまう。パソコンやスマートフォンがあれば割とどこでも働ける。まだ完全リモートオフィスできる仕事ではないが、少なくとも何かのアウトプットはできる。

私達は、常に「仕事をしないで何かをする」という選択をしている

それは現代社会の偉大な発展とも取れるし、不幸な事象ともとれる。

さらに突き詰めると、多くの選択肢の重さは本人の知識経験に釣り合わない事が多い。

私はもう一度やりなおせる機会があれば、法学は学ばず別の道を選び、金融機関にも就職しなかったかもしれない。実際、やり直せるなら今の会社には入らないと言う人が多いというアンケート結果も最近あった。

そのアンケートの信ぴょう性は置いておいて、私たちはよく分からないうちに選択を迫られている。そしてその選択は、裏付けとなる知識や経験と比べると人生において大きな影響力を及ぼしがちだ。

とはいえ、どこまでの知識と経験があれば「確実」な選択ができるかと聞かれたら、それもやはり不確かなものだ。正解なんてないし、未来を予知することはできない。つまり常に私たちはよく分からないものに対してよく分からないまま選択をして、蓋を開けて見なければわからない世界にいる。ある程度は予想ができるかもしれないが、それが全てではない。

対して私の空想の羊飼いは、選択肢は決まっており、人生の意味もある程度は固まっている。彼は良き羊飼いになり、羊飼いたる職務を全うする人生を送れば良いのだ。

人生の意味に何を据えるか

しかし私は自分の人生の意味が未だに見いだせていない。何をなすべきか、何を目指すべきか、それがよく分からない。

転職を考えるにしても、選択肢が多すぎて尻込みしてしまうし、それどころか社内の異動にしても部署によって性質が大きく変わり、選択肢は無限大に見える。

東京を出る、あるいは日本を出るという選択肢だってある。

選択肢が多いことは一見自由かつ贅沢に見えるかもしれないが、かえって私たちの判断を鈍らさ、よく分からないものにしているのではないだろうか。

一つのことに打ち込みそれを天命として全うできる人生に憧れるのは純粋な心の弱さに駆られた逃走本能かもしれないが、私たちが心の奥底で求めているのはそういったことではないのだろうか。

あるいはそれは資本主義が産んだ問題なのかもしれない。競争の中で自由選択を取る余裕と度胸を培うのは人によっては難しい。ベーシックインカム制度などの考え方はこういった選択の自由をある程度は保証してくれるものなのかもしれない。

そんなことを考えながら、私は今日も東京の満員電車に乗る。

  • この記事を書いた人

内藤エルフ

2013年東京大学法学部卒業。都内の米系投資銀行勤務。英語と日本語のバイリンガル。意識高い系そのものが好き。スターバックスでMacbookを開いてドヤ顔するのが好き(しかし仕事のファイルは持ち出し禁止なのでネットサーフィンのみ)。なお、コーヒーの味の違いはわからないけど、日本とアメリカのコーラの味の違いは7割の確率で当てられる。

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