なんで押してはいけないボタンや、開けてはいけない扉を開けたくなるのだろうか。
人の中にある好奇心がそれをさせているのは明白だが、ときにそれは面白い作用をもたらすのではないだろうか。
いわゆる見るなのタブーやカリギュラ効果と呼ばれる現象である。
飲み屋での会話レベルの戯言に、少しお付き合いいただきたい。
この記事はこんな方におすすめ
- 思考実験がお好きな方
- カリギュラ効果や見るなのタブーに興味がある方
- 妄想世界の妄想ルールが好きな方
目次(タップで開きます)
禁忌、タブー、見てはいけないモノ
神話や昔話を見ると、タブーの話がよく出てくる。日本人に馴染みのある話なら「浦島太郎」だとか「鶴の恩返し」だとか、海外なら「パンドラの箱」の話や聖書の「塩の柱」などがそれにあたる。
見てはいけないみてしまったゆえに罰が下る、というのは古今東西存在するテーマである。個人的には浦島太郎なんかは「勝手に渡しておいて開けちゃ駄目とかおかしいでしょ」と思ったりはするし、教訓も今ひとつピンとこないが、まぁとにかく常に題材にされ続けたもじょである。
このトピックに関してきっと多くの考察がなされているし、探せば論文などもあるかもしれない。
私はあえて思考実験というか頭の体操、ちょっとした遊びとして少し考えていってみたい。
見てはいけないと見たくなる
とにかく人は見てはいけないもの、触れるなと言われているものに興味を示す。
人間が人間たる所以はその好奇心にあると説く人もいるぐらいだし、人は知識を追い求める。
科学技術や文明の発達を担ってきたのはこうした好奇心が旺盛な人間たちの努力によるものだろう。
押すなと言われているボタンは押したくなるし、開けるなと言われている密書は開けたくなる。物語に出てくる海賊の宝箱は主人公に必ず開けて欲しい。
インディージョーンズだったら私は真っ先に溶けてるタイプの人間だろう。
下着は見たらいけないからエロいのか
そう考えると、下着の魅力はもしかしてそういうところにあるのではないか。
乳房や性器を隠すという習慣は私たちの記憶している限り最初からあるようだが、民族文化や歴史の時代によってはそうではない。乳房を露わにしている民族は今も昔もいるし、男性器を露出している民族もあった。
彼らにとってはそれが文化的に当たり前だと考えると、私がふと気になるのは、そこに好奇心が向かうだろうか。
現代の日本社会では当然人は裸では歩けない。海岸とかなら上半身裸で男性が歩いてもおとがめはないだろうが、女性だったら問題だ。ヌーディストビーチは詳しくは調べていないがおそらく日本にはないだろう。
とすると、私たちがその隠されたものに魅力を感じ、性的な興奮を覚えるというのは文化的に作られた意識ではないだろうか。
見てはいけないモノが小指だったら?
もし、仮に、男性は伴侶以外に両手の小指を見せてはいけないという決まりがあったとする。
常に小指サックを身につけて、みだらに小指サックを外したらわいせつの罪に問われる。
そうすると、例えば18禁の「小指ヌード」とかが発売されるのだろうか?
テレビ番組にてアクシデントで男性出演者の小指サックが外れることがあったら、キャスターが謝るのだろうか。
あるいは外に干していた小指サックが盗まれる、なんていう事件が発生するのだろうか。
お洒落なレースの小指サックを学校につけて行ったら先生に怒られるのだろうか。
実際にそのような社会になってみないと分からないが、少なくとも何かしら影響はあるかもしれない。小指だと他の指とあんまり区別ができないから、耳とか鼻だったらどうだろう。
とにかく、私が不思議でならないのは、人の欲求は純粋な欲求ではなく、知的好奇心に駆られて出てくるものかもしれないということだ。そしてそれが身体的な変化を及ぼすこともある。
そのようなことを考えながら、私は小指を見つめる。