ブログ

ネタバレが大好きな人間だって、この世には存在する。

「その推理小説さ、犯人○○だよ」

こんなことを友だちに言われた日には絶交、という人は多いだろう。私だって憤る。

とはいえ、「他人に勝手にネタバレする行為」と「自分でリサーチしてネタバレる行為」とは別物だと私は思う。実は私はとんでもないぐらいのネタバレ好き人間である。ネタバレしちゃったら楽しみが、とすぐに反論されるかもしれないが、まずは私の言い分を聞いてもらいたい。

ネタバレには、実は色々な「良さ」があるのだ。

世の中にはこういう人間もいるのだな、ということと同時に、少し違った人生の見方(意識高い系特有の大げさな表現)ができるかもしれない。

この記事はこんな方におすすめ

  • ネタバレ、ダメ絶対な人
  • 人生において不安が多い人
  • 娯楽を違う側面から捉えたい人

私は心配事が多いからネタバレが好き

私は心配事が多い。余計なことばかり考えて、常にネガティブな気持ちに沈みそうになっている。

そんな私は、正直なことを言うと、気持ちを集中して2時間も映画を見たり、何百ページもある小説を読むことができない。これはいわゆる勉強とかにおける集中力とは別で、「気持ちの落ち着きがつかない」という集中力のなさである。

つまり、入り込んでしまうのだ。感情移入しすぎてしまう。

「ハラハラドキドキできる映画」であったら、私は本当に汗をかきながらハラハラドキドキしてしまう。心拍数がぐっと上がってしまう。「悲しくて涙が止まらない悲哀小説」だったら、1日寝込んでしまう勢いで枕を濡らしてしまう。

私は不安症なのだ。

肩入れしていたお気に入りのキャラが死んでしまったり、応援していた女の子が最後はフラれてしまったり、実はこの世界は夢でしたみたいなオチだったり、そんなことが突然わかった日にはぶっ倒れてしまう。

その上で、私は兎にも角にも「心の準備」をしておきたいという心持ちで、ネタバレに走るのである。

三島由紀夫と戦争

突然何を言い出すのかと思うかもしれないが、以下はNHKの三島由紀夫「人物録」のページからの引用である。

三島由紀夫は20歳で迎えた終戦の風景について「世界が破壊するはずなのに木々が夏の日を浴びて輝いているのが不思議でならなかった」と振り返る。そして、英雄的な死というもののない時代にわれわれは生きているのだと語る。

私は当然戦後生まれであるし、戦争の悲痛さについてはまったくもって計り知ることもできないのだが、少なくとも三島の言わんとしていたことは分かる気がする。

つまり彼は、「日本が戦争に負けたらこれだけ悲惨なことが起きる」と覚悟していたーーとどのつまりは、死を覚悟していたのである。

しかしいざ終戦の日を迎えたところで、特に何も起きなかった。そこにあったのは、ただ日常である。とはいえ、その日常は戦争と終戦によってひどく瓦解してしまったものではあったのだろう。

ここで私が言いたいのは、「予見していたものが起きなかった」ときの空白感である。

私は自分の見通しのつかない将来が不安であり、だがそれは「将来的に悲惨な目に合う」という不安よりかは、「何が起きるかわからないから」という不安なのである。

だから私は、サプライズ・パーティも嫌いだ

ここまで読んで頂いた読者の方にはすでに察しが付いているかと思うが、私は予想外の出来事がえらく苦手である。

急に乾杯の音頭を、なんて言われたらテンパってしまうし、あまりアドリブが効く機転を持ち合わせていない。つまりポンコツである。だから私はサプライズを極力減らして人生を送りたい。

そういう意味で私はあらゆることを手帳にメモしているし、靴下もいつ片方がなくなってもいいように全部同じもので揃えているし、とにかく「考え事」「余計なリスク」をヘッジしまくって生きている。それなのにブログ運営しててリスクだらけじゃないかというツッコミは受け付けない。

リスクはヘッジするものだから、ストーリーもネタバレるものなのである。

私は最初から大まかなストーリーを頭に入れた状態で作品を見たいのだ。

ネタバレにだっていいことはある

ネタバレには悪いことしかないかのような世間での捉えられ方をしているが、必ずしもそうではない。

ネタバレをしているからこそ、作品をリラックスして見ることができる。結末がわかっているのだから、「ではどうやってその結末に向かっていくのか」という俯瞰的な物事の捉え方ができる。

伏線にもよく気づくことができる。「なるほど、あのときのあれが・・・」とあとになってハッとするのもいいが、「あぁ、これが伏線になるんだなぁ」とニヤニヤしながら見られるのもそれはそれでオツなものではないだろうか? 少なくとも私は、作者や監督といったクリエーターの方の思考を「なるほど、こうやって構築していったんだな」と想像しながら見ていくのが好きだ。

ストーリーの大まかな流れと結末を知っているからこそ、ワクワクしながら見ていくことができるのだ。

そもそも、「ストーリーと結末を知っている」状態でも楽しめる作品はいくらだってある。例えば水戸黄門なんて完全なお決まり展開ではあるが(水戸黄門が悪をやっつける)、それでも人気があるのは「わかっている上で楽しめる良さ」があるからだ。

歴史ものの映画をとってみれば、そもそも史実ベースなのだから(謎のif展開にはいらない限り)結末はわかっている。それでもなお楽しめるのは、文章の美しさ・映像美やキャラクターの練り上げ方等、様々な要素があるからである。

ネタバレしないほうがいい作品がある、というのもわかる。

世の中には素晴らしい伏線や素晴らしいどんでん返し等、「記憶を消してもう一回みたい・読みたい作品」があるというのも分かる。

私も実際に初見で見て・読んで、ぶっ飛んだ作品はある。

だがそういう作品は、意外と「もう一度見ても・読んでも面白い」ものばかりだ。「そうそう、ここであの伏線が・・・」とワクワクしながら楽しむのである。

最初からそれをしなくても、という意見は当然あると思うし、それはリスペクトする。ただ前述の通り私は不安症なのだ。わかったうえで、楽しんでいきたい。

あるいは「購入前に商品のレビューを読む行為」と似ているのかもしれない。他の人がその商品を使ってどう感じたのか、そういった点をリサーチするのは誰だってするだろう。それは失敗をしたくないからだ。商品が届いてあらびっくり、という残念ポイントを減らしたいからだ。そう考えると、私のネタバレ確認は親しいものがあるのかもしれない。

もちろん、他人にネタバレはしない

勘違いはしないでいただきたいが、私は自発的に自分からネタバレを見に行くのが好きなのであって、決して他人にネタバレはしない。それは個々人の価値観に踏み込むことなので、決してやらない。

英語ではネタバレのことを「spoiler」と呼ぶが、文字通り作品をspoil(=だめにする)から、という考えである。私の場合はspoilされることはないが、他人にとってはspoilであることは十二分にありえる(というかほぼ絶対そう)だから、避けたほうが良い。

ただ世の中には「自分からネタバレを見に行く」人がいるということを、理解してもらいたいのだ。

まとめ 先が見えるからこそ、歩く道が分かる

私には、自分の足を信じて前に進んでいくだけの度胸がない。道を切り開いていくだけの技量がない。

だから私は不安になってしまう。この先どうなるのか。あの人はどうなるのか。この世界はどうなってしまうのか。

そのような不安を少しでも取り除くために、そして安心して、純粋にその作品の世界観を楽しむために、私はネタバレへと突っ込んでいく。全てが分かっているからこそ「ではどうやって組み立てるのか」という意匠の部分に喜びを見出しながら、作品に没頭することができるのである。

ネタバレって何のためにあるのだろう、とふと感じていたあなたに。こういう人がいるからなのだ。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

梅棹 忠夫
880円(01/27 00:21時点)
発売日: 1969/07/21
Amazonの情報を掲載しています

-ブログ
-

© 2021 The Output