2020年に広まった新型コロナウイルスは私達の生活を一変させた。何年か経って振り返ってみれば「そんなこともあったね、あんな対策したね」と笑って語れる日が来るかもしれないし、そんな日は一生来ないかもしれない。どう転ぶにせよ、歴史に深い爪痕を残したのは確かだろう。
新型コロナウイルスを通して、窮地に陥った人も多い。大切な人を失った人も多い。本当にショッキングな出来事だ。
しかし、世の中には、このコロナに翻弄される社会を喜ぶ人がいる。それは例えば、株で儲けたからとか、嫌いな人が死んだからとか、学校に行きたくないから嬉しいとか、テレワークが好きだとか、そういう話ではない。
より根本にある感情で、「コロナで混乱する社会」を喜んでいる。それは何故だろうか?
断っておくが、私はその人間ではない。新型コロナウイルスに対しては憤りしか感じない。そこから露呈された国民、政府、国際社会、専門機関、あらゆるものに対してそのあり方を問い直すときが来ていると感じている。だが、そうでない人がいるということも確信している。
この記事はこんな方におすすめ
- 新型コロナウイルスによる「非日常」に違和感を覚えている方
- コロナ禍での人間の幸福のあり方について問い直したい方
他人の不幸や非日常を喜ぶ理由とはなにか
情報過多の時代なのに、私たちはニュースを求めている。
手元のスマートフォンを利用すれば、一生涯読み尽くすことができないほどの知識を得られるというのに、私たちはそれでも新しいものを追い求める傾向にある。
私もふとしたスキマ時間でついついYahooニュースをみたり、まとめサイトなどを見てしまう。ファストフードのように、ヘッドラインを眺めて「そうなんだ、そういうことがあったんだ」と見て満足する。
そして私たちは、ショッキングな、往々にしてネガティブなニュースに惹かれる。殺人事件、事故、政治家の不祥事……そういったものは、ついついクリックして中身を見てしまうという経験はないだろうか。
何故、これだけ情報があって、エンターテイメントに溢れている時代なのに、私たちはニュースを欲しがるのだろうか。
これに大して、様々な社会学者、哲学者が様々な説を提唱しているが、ひとえに私が思うのは、自分自身の現状を打破したいと思っているのではないだろうか。
というのも、今の日本に住んでいる私たちは、非常に恵まれた環境にいる。もちろん、格差はあるし、ワーキングプアの問題をはじめとして様々な問題がひしめいているが、それでもかなり恵まれた環境であろう。そういう中で、私たちは自分自身の存在意義と人生の目的を見失いつつある。
皮肉なことに、平和で豊かな世界になればなるほど、私たちは自分自身の役割を見失いつつあるのではないだろうか。今日を生きることで精一杯だとか、あるいはゼロから新しいものを作らなければならないとか、そういう状態ではない。山を開墾して、家を建てなければならないなんていうことはない。狩りをして、その日の食事を得なければならないわけではない。そうなると、私たちは、自分の生きるために必要な労力以上に、エネルギーを持て余すことになる。そのエネルギーの矛先はどこへと向かうのだろうか。
それは情報化・消費社会の中で、くすぶっているのではないだろうか。
わかりやすい英雄がいない時代
かつて「希望は戦争」という発言で物議を醸したフリーライターさんがいたが、その時に少し思ったのが、「戦争の時代はやるべきことが明確化されていたのだろう」ということだ。
もちろん、戦術的な話をしたら、戦時下でもやることは無限大にあるのだろうが、そうではなく、明確な敵国がいて、その敵国に打ち勝つという目的が存在していたということだ。
しかし今の世の中では、そのような明確な人生の目的は存在しづらい。確かに「立派な大学に入る」とか「これだけの年収を得る」とか、「家族を作る」とか、様々な目的を建てることはできるが、しかしそれは自分を取り巻く「社会」に強い影響をもたらさない。
実際問題、私が年収5000万になろうが、結婚して子供を15人作ろうが、おそらく社会に大して及ぼす影響は微々たるものだ。社会の「流れ」がそこにないからだ。
しかし「希望は戦争」ではないが、戦時下では「流れ」は明確に存在していた。そして、その流れに乗って「英雄」たちが次々と生まれた。我が日本国でも、「軍神」と呼ばれた人たちがいた。
それの良し悪しは置いておいて、しかし多くの人はそういったアイドル化に憧れを抱く。例えば、少し前に一斉を風靡したソーシャルゲームの「Fate Grand Order」は、過去の英霊を呼び出して戦わせるというゲームだが、これはテーマとして非常にわかりやすく、大衆に「刺さりやすい」ものではないだろうか。子供の頃ギリシャ神話を読んでヘラクレスに憧れたり、日本の歴史を読んで織田信長に憧れたりしたものだが、そういう「英雄」を集めるのである。
そこにあるのは「今の時代にない荒波」に対する憧れである。
コロナを喜ぶ人は、自分が新しい時代の目撃者になるからか
新型コロナウイルスによって、私たちの日常の「当たり前」の多くが破壊された。
それを目の当たりにして、「随分とすごい時代に自分はいるんだな」と自覚することはないだろうか。歴史の目撃者という言葉があるが、まさにそんな感じである。
いつまでもこの非日常に身を預けたいと思う人は、ひょっとしたらこの「歴史の目撃者たる自分」というものをいつまでも保存したいのではないだろうか。
というのも、コロナ禍は戦時下とは明確に違うところがある。どちらも明確な敵(コロナや敵国の兵士)が存在するものの、その解決法において、コロナにおいては一般人は英雄になることはできない。医者であったり、指導者であったり、少なくとも何らかの立場や権威がある人間でなければ、社会に劇的な効果をもたらすことはできない。立身出世のチャンスが限定的である。(私はもちろん、戦争であれば誰だって英雄になれるチャンスが等しくあると言いたいわけではない)
そうなると、ジレンマが発生する。
明確な目的がなく、持て余したエネルギーを消費する方法に困っていた人にとって、非日常のコロナ禍というのは新しい「舞台」となり得る。しかし、いつまでたっても、その「舞台」で自身が活躍する可能性は皆無に等しい。
となると、そこまでして新型コロナウイルスがもたらす非日常に固執し、それが過ぎ去ってほしくないと思う理由は何だろうか。
終わってしまうと、もとに戻ってしまうから
つまるところ、有り余っているものの、やり場のないエネルギーを持っている人たちは、現状に不満なのである。
自分の手でなにか新しいものを作るわけでもなく、ただ今日と同じような日々が過ぎ去っていくのを、ただひたすらに繰り返すということが耐えられない。だから何か劇的な変化が起きてほしいと願っている。それは自分の力では何も打ち崩せるほどの力を持たない、平和な社会における消極的な市民という立場に甘んじているからである。
甘んじているが故に、やはり自分からその身分から抜け出すという行動を取ることができない。
よってそこに「転がり込んできた」非日常である新型コロナウイルスの猛威を前にして、「昨日とは違う日」が訪れたことに歓喜しているのかもしれない。それはきっと、消費的な行動として3分で読めるニュース記事を次から次へとチェックしているのと同じように、滞在するべき新しいニュース記事の世界なのである。
だがニュース記事と違って、コロナ禍の「消費」は例えばワクチンが行き渡るなど、何らかの打開があって「平常」へと戻ることを意味する。それは当然、ニュースを読むのとは違い、自発的に結果を残せるものではない。
そうなってしまうと、ただ「コロナ禍が終わってほしくない」と願うだけになってしまうのだ。
まとめ 私は収束はしてほしい。だが私には何もできない。
私はやはり、当然とも言えるが、新型コロナウイルスは早く収束して欲しい。
旅行が好きだし、知人と食事をするのが好きだし、マスクをつけていると耳が痛くなる。苦しんでいる人も増えてほしくないし、何より自分の大切な人たちがコロナにかかってしまうことを想像すると恐ろしくてたまらない。
だが同時に、私にできることは殆どない。
自粛して、とにかく外出を控え、念入りに消毒をして、リモートで仕事をしている。しかし、その程度である。その積み重ねが大事であるということは分かっているものの、私自身の力でできることは、新型コロナウイルスの前ではチリに等しい。だからといってやらないわけにはいかないが、気が遠くなる話だ。
そういう中において、この非日常を振り返って将来何を思うだろうか、と考えることがある。
いつの時代か、「あの時代の人たちややることがあった」と思うのだろうか。
このような記事を書くほど、私はただ世界が、団結してもそう簡単には打破できない共通の敵と戦っている新たな戦争に巻き込まれているのだなと感じているのだ。