アメリカの意識高い系の人は大体これを読んでいる気がする。
「ソフィーの世界」とか、「モリー先生との火曜日」とか、そういうのと並んでヒッピー的な哲学かぶれな高2病あたりになると大体はこの本に手を出している気がする。偏見だろうか。申し訳ない。
私は高2の頃は流行りものや定番に手を出さないアウトロー気質がかっこいいと信じ込んでいたのでこの本には手を出さないまま時が過ぎ、それから10年以上経った今、ようやく手を出したのである。
なお、断っておくが私は原著を読んだので翻訳のクオリティについてはコメントができない。
この本はこんな方におすすめ
- アメリカで超有名な作品に触れてみたい方
- 哲学が好きな方
- アメリカをバイクで横断、というフレーズがピンとくる方
- 超天才が書いた刺激的なノンフィクションを読みたい方
ブックデータ
- 禅とオートバイ修理技術
- ロバート M パーシグ
- 五十嵐 美克 (訳)
- 文庫本(上下巻、各220ページほど)
- 2016/3/31 (初版は1974年)
- 早川書房
私の周りの多くが勧めていた本
本に限らず、私はあまり先入観を持って読むのが好きな人間ではない。
帯とか表紙の写真とかに惹かれやすいからこそ、内容についてはなるべくクリーンな気持ちで本にアプローチしたい。だが、この本についてはかなり多くの人から名著だ名著だと評判を聞かされていた上に、私の尊敬する人も愛読書に上げていたから相当に期待が上がってしまっていた。
そのバイアスがかかった状態からスタートを考えると、正直少し期待外れだったことが否めない。
期待外れなのは本の内容以上に、自分の理解力の低さだった。
最初は本当に面白かった。
ネタバレなど一切なく大雑把に話の内容を説明したい。これは作者の自伝的作品であり、つまりは(多少は脚色されているだろうが)ノンフィクションである。
著者は極めて頭が良い人間で、トップクラスのIQを誇るいわゆる「天才」であった。しかし、ある分野での真理を追求しようとするがあまり気が触れてしまい、電気ショック療法を受ける。
ショック療法によって過去の自分の記憶が消えてしまった作者は、記憶の断片をかき集めながら、息子とともにバイクに乗ってアメリカを旅する…という話だ。
いやはや壮絶である。
ちょっと「ビューティフル・マインド」を思い出す(余談ではあるが、あれは個人的に大好きな映画だ)。何よりノンフィクションというのが素晴らしく私の琴線に触れる。
そしてロードトリップをするというのがまたアメリカらしくていい。
私はバイクは免許どころか実物に触ったこと経験すらないが、なんとなく荒野をバイクで走るというのに憧れがある。映画「アラビアのロレンス」の冒頭ではないけれども、ただひたすらに走ってみたいものだ(なおロレンスがその後どうなったかは触れないでおこう)。
いけすかないやつとの旅
しかし、この著者と一緒に旅をするというのは辛いだろう。
著者は頭がいいが、あまり性格が良い人間とはいえない。
彼は生粋の論理主義者であり、だが哲学者でもある。チャレンジ精神がない人間など、様々な人種をなぜそうなのかを分析し、小咄をはさみながら自身の過去を紐解いていく。
私達読者は彼とともにバイクに乗り、その旅に同行し、彼の話を聞くことになる。
だが、彼は人格に少々難がある。まぁ、だからこういう本を書いているのだろうけれども、なんとも食えない人間だ。スノビッシュなところもあるし、プライドが高く、なかなか折れず、ずば抜けて頭がいいから屁理屈を並び立てるのがうまい。私だったら開始15分で喧嘩に発展しそうだ。
中盤になってくると一緒に旅をしている息子(もしかすると本作における唯一のまともな人間らしい人間かもしれない)に本当に心の底から同情したくなってくる。
私が違和感を感じたのは、著者の論理が滔々と流れ、そして常に一方通行であることだ。
というのももちろん彼の独白に近い文章構造だからなのだけれども、一緒に旅をしている各人はあまり彼の議論に口を挟むことがない。それぞれなにか特徴的な性質についての解説の道具、モデルケースにされ、著者に解剖されていく印象を受けた。
著者に突っ込む役割を担うのがせいぜい過去の自分(これも記憶の中の亡霊のような存在だ)なのだから、話がうまくいくわけがない。
わかりにくくて、ついていけない
著者は数々の論点について丁寧に洗っていく、そういうスタイルを取るように見えた。事実、旅の最初はそうだった。面白い考察を、とても頭がいい人から聞いている、そういうオムニバス形式の講義を受けている気分だった。
だが旅の中盤から、話の焦点は著者の過去と、過去の自分を殺してまで逃げなければならなかった論理的追求の話になる。
なにが著者を山にこもらせるほど思いつめたのか、その命題はなんだったのか。
しかしここがあまり私にはピンとこなかった。
実際著者を苛ましていたのが何かというのは読んでからのお楽しみということにしたいのだが、著者が触れている点は私からすると半ば当たり前で(だからこそ、その証明に著者は手こずっていたのかもしれないが)、いわゆる「美学」の範疇に収まるもののように思えた。なぜそこに固執できるのか…という個人的な不可解さを抱いたままの終盤戦だったので、なんとも後味が悪いと言うか、納得がいかないまま進んでいく作品のように感じられた。
きっと私の理解が浅すぎて、著者の高度な思想についていけなかったのだろう。
だが、その点をついていけないとなると、かなり辛いものがある。
物語のキモになる部分に納得出来ないまま話が進んでいくと、もはや読書は娯楽ではなくなる。
結局腑に落ちないまま完結してしまった。
悪い本ではなかったと思うし、文章もわかりにくいところはあったがそこまで難解というわけではなかった。だが、根底にある哲学的内容に途中から脱落してしまったのだ。
もう少し親しみのある内容であればよかったのかもしれない。「え、そこを気にするの? まじで? どうするつもり?」と思ってしまう私は、きっと世の中をありのままに受け入れてしまっている意識が低い人間なのだろう。
まとめ 難解だが、なぜ人気なのかはわかる
この作品が何千何万という読者を魅了し、また今も魅了し続けている理由はなんとなくわかった。
著者はカリスマだ。ちょっとした導師というか、グルみたいな存在だ。そして彼の人生そのものも非常に面白いし、差し込んでくる話や考察もカミソリのように鋭い。
だがそれ以上私は踏み込めなかった。
この親密なインナーサークルに踏み込む資格を私は持たなかったのだろう。どうにも納得がいかないというか、毛色が違うというか、肌に合わない−−そう、肌に合わない気持ちがした。
それ故にこの本を手放しで称賛することはできない。
わかっている、それは非常に個人的なものの見方で、優れた考察ではないと。だけれども、合わないものは合わないとしか言いようがない。
この本をバイブルにしている多くの人には申し訳ないが、「いけすかない高慢ちきな野郎が書いた、頭がいい人の考え方の本」としか思えなかった。